2023年3月11日(土)
前回の日録では、内藤くんが「あなた」について書いていました。その中で、他の研究会会員が考える「あなた」が気になるということで、今回は誠に勝手ながら、僕が考える「あなた」について書きたいと思います。とはいえ、「あなた」という概念を説明するのは難しいです。なぜなら僕自身ですらわからずに使っているからです。「あなた」という言葉を起点にして物事を考えているので、その起点そのものというのは、さっぱりわからないのです。論理とは何かを考えるときに、それもまた論理で考えなければいけないので、結局論理そのものというのは、いったい何か分からないという道理です。そういう根源的に説明不可能なものが、「あなた」にはあると思います。
僕が「あなた」という言葉を使う時には、まず「あなた」という言葉が意味を考えずに口からでてきます。そこから風景や象徴というものが紡がれるのです。すなわち、「あなた」という言葉を書いてから、そこに続く他の言葉というのは、「あなた」への注釈にしか過ぎません。なぜなら、「あなた」という言葉自体に、イメージを喚起する力はないからです。現実で「あなた」という言葉を使う時は、目の前に「あなた」の対象になる相手がいます。しかし、詩で「あなた」という言葉を使うときは、対象よりも言葉がさきにでてきます。煎じ詰めて考えれば、詩のなかでの「あなた」という言葉には意味がないということです。
しかし、「あなた」といった瞬間、語るべき相手は僕の心の中になぜかいます。それを神といってもいいし、人類といってもいいでしょう。ただ、それを具体的な名詞で固定するのは、僕にはあまり意味がないことだと思います。具体的な人物、もしくは固有名詞を思い浮かべてもしっくりきた試しがないからです。固有の人物と一致させなくても、まずは、言葉が書けているという奇跡に注目するべきではないでしょうか。
どれだけ「あなた」がいない文章でも、それが文章として書かれた以上、絶対に作者の心の中には「あなた」がいるのです。「あなた」とは人間が文章表現を続ける以上、永遠に抹消することができない存在です。故に、「あなた」がいる/いない以前に、「あなた」は作者が文章を書きたいと言う意志の中に、そもそも内包しているのです。ショーペンハウアーは「意志そのものには根拠がない」と言いました。それと同じく、「あなた」と思わず口走ることにも、根拠は全くないと思われます。
このように考えると、根拠がないのに存在してしまう「あなた」は、この世で最も空虚な言葉だと思います。「あなた」とは、中身の入っていない器みたいなものです。「あなた」という言葉が美しいわけではなく、「あなた」という器に入った言葉が美しいのです。よって、「あなた」という器に入る言葉を変えれば、「あなた」はいくらでも美しくなるといえるでしょう。
実存とは、現在の私を否定して、新しい私に生まれ変わる生成過程そのものです。「あなた」という器は不変ですが、「あなた」の内実は、生成し、変化することが可能です。「あなた」がいる/いないという二項対立を脱構築することによって、「あなた」の内実を作りあげる人生という可能性そのものに実存することができると僕は思います。
少しですが、「あなた」について書いてみました。お付き合いありがとうございました。
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